見附市相撲協会の沿革
明治3年9月再発行〈1870年〉江戸相撲七代目、花籠平五郎から見附町〈当時〉新町の世話人、五十嵐栄吉と花の森源次郎に対し、土俵免許(見附新町諏訪神社祭礼で行う奉納相撲の土俵に四本柱を立てることを許可するという許可証)が与えられて依頼、毎年9月1日の秋の祭礼には奉納相撲を挙行してきた。代が変わり、昭和の初期には氏子の中から相撲愛好家数名によって力正会という組織を作り、青年力士の育成をはじめとして、土俵・四本柱の維持と相撲道の発展を願って、奉納相撲を継続してきた。戦後に入り昭和23年頃、勧進元組織の名称を見附相撲協会と改称し、旧見附町内の相撲人および相撲愛好家多数を会員として、町内各商家・企業からの寄付を仰ぎながら奉納相撲の伝統を守ってきた。町村合併により市政が施行され、昭和36年に組織名を現在の見附市相撲協会と改称し、内部機構として親方会、力士会、相撲教室の3部門を設け現在に至る。
【見附市相撲協会に改称されて以来の歴代会長】
初代 今井良松 二代 荒井正治 三代 今井良松 四代 坂田光作
五代 斎藤昭三 六代 山口 登
見附駅前大山神社相撲有志会の沿革
昭和30年代の末期から近郷の村々で行われていた奉納相撲が姿を消し始め、相撲の衰退を危惧した見附駅前に居住する見附市相撲協会員の有志数名が大山神社氏子総代の許可を得て同神社境内に土俵を構築するとともに、昭和45年5月には見附駅前大山神社相撲有志会を結成し、第1回奉納相撲大会開催した。新潟県相撲連盟主催による県新人大会をはじめ国体予選大会を数回開催した。大山神社相撲有志会結成以来、幹事長として会の運営と相撲大会開催に心血を注いだ『若稲荷』こと川崎松栄氏の功績は特筆すべきものがある。
【大山神社相撲有志会結成以来の歴代会長】
初代 稲垣信治 二代 金井時江 三代 宮島 清
見附相撲中興の親方
〇斎藤昭三 諏訪錦改め行司木村昭三
小学生当時から相撲を習い、卒業後家業を手伝いながら、夏は連日のごとく奉納相撲の場所を巡り、20歳の頃には地元大関と称されるほど強くなっていた。その頃から若手力士を指導育成し、県青年大会の監督として自ら稽古台となって鍛え上げた選手は数多い。しばらく低迷していた見附の相撲を活性化させ、昭和35年の県青年大会での団体優勝を皮切りに良く36年には全国青年大会県予選大会で優勝、昭和42年にも優勝し、全国大会への出場権を得た。いずれの全国大会も個人戦で優勝または3位の成績を収めるなど、相撲の名門【見附】の名をけんかに知らしめた名監督である。また、昭和30年代後半からは行事として土俵をつとめ、終生相撲を愛し、相撲の興隆発展に努めた。
〇相撲場の裏方、名呼び出し『太助』こと荒木左武郎
若い頃から相撲が大好きで神社の奉納相撲にはどこへでも見に出かけていた。相撲は好きだが体が小さかったため、裸で土俵に上がることはできないが何としても相撲に関わりたいとの一念から兄の勧めもあって呼び出しになることを決意、プロの呼び出しの所作を見ながら一人黙々を稽古に励んだ。力士を呼び上げる発声練習、拍子木の打ち方、土俵の掃き方等々、全てをマスターして土俵へ上がれる頃になると各地の奉納相撲大会にひっぱりだことなり、県下の力士はもとより親方衆からも慕われ、呼び出し太助としてその名を広く知らしめた。また、相撲甚句を得意とし、哀愁じみた呼び出し太助の美声はここでも生かされた。さらに若手力士を育成するかたわら、呼び出しの後継者作りも忘れなかった。櫓太鼓打ち方に始まり拍子木の打ち方、土俵の作り方、蛇の目の掃き方、力水や清めの塩への気配り、表彰式の手順など、次代を担う若い呼び出しに教育した。相撲の裏方としてかけがえのない存在であった。
<新潟県相撲連盟60周年記念誌より>